坂本龍馬が生きた幕末は、最後の武士たちの時代。
黒船が来航し、幕府は開国を余儀なくされる。武士たちは尊皇攘夷を叫び、日本中が沸騰する。
土佐の武市半平太(たけちはんぺいた)は坂本龍馬のドラマにはたいてい登場するが、私は「龍馬伝」の武市が一番と思う。明るく正々堂々と振る舞う龍馬に対し、ここではやや窮屈なイメージの武市。先生と呼ばれ、多くの人に尊敬される反面、龍馬への焦り、負の感情が表現されている。武市は誇りある武士の一人だった。武市が生きるとき、一人脱藩する人生はありえない。人の先頭に立ち、堕落する者たちを引っ張っていくのが彼らしい。ずっと虐げられてきた土佐の下士を、ほんの一時でも、表舞台に立たせた武市。そんな理由から「龍馬伝」での武市に注目した。
土佐には、江戸開府から根強く残る 厳しい身分制度があり、 武士の身分が「上士」と「下士」に分かれている。下士は上士から徹底的に虐げられ、服従するしかない。口惜しさが染み込んだ土佐の下級武士たち。そして、そのなかに坂本龍馬もいた。
龍馬は16歳の頃、剣術修行のため江戸へ旅立つ。その時浦賀で黒船を目撃し、西洋文明の強さを思い知る。同時に剣術を学ぶ意義に疑問を持つ。(この黒船の前に、わしらの剣術は縫い針のようなものではないろうか?)
その後土佐へ戻った龍馬は周りが変わっていることに気付く。
幼馴染である武市半平太を先頭に、かつての仲間たちが尊皇攘夷を叫ぶ。 武市半平太は「白札」という身分の下士だった。武士道仁義を尊び、剣術に秀で自ら道場を開き、それが「土佐勤皇党」の基盤となっていった。「土佐で虐げられていたことら、忘れや!今日本は異国の侵略を受けゆう。わしらは、帝の下に一つになり、刀を抜いて異人を追い払うじゃが。尊王攘夷ぜよ!」 武市の言葉は、土佐の下級武士たちの心を掴む。 200人もの有志が武市の元に集まっていた。
ただ、龍馬は釈然としない。「黒船が起こす大波を、陸で振りまわす刀で食い止められるだろうか?」
しかし、時勢が見事に武市の追い風となり、彼は尊皇攘夷を掲げ、土佐藩を動かすようになる。そして藩主である山内豊範公とともに京へ上る。 攘夷派の公家である三条実美公を担ぎ、幕府に対し攘夷決行の約束を取り付けるよう働きかける。その頃、どうかこうか土佐一藩を率いていたのは、確かに武市だった。
藩主 山内豊範の父である山内容堂は、隠居の身とはいえ全権力を掌握している。 江戸にいた容堂公は、訪ねてきた勝麟太郎に、武市についてを語る。 「-その男はこういうそうな。『わしは日本のため、帝のため、大殿様、山内容堂公のために働きゆう』」と」そして「土佐ではな、下士は犬猫同然なんじゃ。下士の分際で藩を動かそうなど、虫酸が走る!」と。時勢が変わろうとも、容堂にとって、武市は下士であった。それが、公家をかつぎだし、大恩ある徳川幕府に物申すとは・・不愉快極まりないという。
その直後、容堂公は、三条公の申し出に従い、武市をあっさりと上士に取り立てる。ついに容堂公は武市を認めたか?いや、そうではなかった。容堂公はつぶやく「上り坂も、ここまでじゃ」と。
徳川慶喜は5月10日を攘夷決行の日と公言していた。
しかし、その日が過ぎても何も為さない。
さらに、8月18日の政変を境に、武市ら尊皇攘夷派は失速する。
容堂公は江戸を引き上げ土佐に帰還。そして、「土佐勤皇党」に帰還命令を告げると、彼らに対し本格的な弾圧を開始する。
武市が「武士」であることは、「土佐勤皇党」が転落した頃から際立ってくる。 私にはそんな風に思えた。望みとか名誉とかのほとんどがそぎ落とされ、今まで他人を鼓舞してきた、尊皇攘夷や武士道などの精神論らが、この逆境において、自身の中で芽吹き始めたように。
同じ頃、ちょうど商売が軌道に乗り始めた岩崎弥太郎とのやりとりがその対比で興味深い。 武士の誇りと哀しさが自然と武市の表情にあらわれだす。弥太郎はこれから事業で成功していき、いわゆる勝ち組となっていくが、武士としての忠義心が一本筋として心の中に宿る武市にとって、それらは無縁の世界だった。
その後、土佐勤皇党の権威は完全に消失し、武市は投獄される。
武市の投獄生活は1年半以上にも及ぶ。
容堂公は武市を疎んじていたが、心の底では武市の忠誠心を知っていた。私心のない忠義の本物かどうかは誰にも計れない。では、それならば他の側近たち、家臣たちはどうかと問われれば、やはり武市は抜きん出ていたはず。
無念にも武市はこの牢で生涯を終える。
ただ、その最後の最後に奇跡が起こる。 あろうことか、あの容堂公が武市の牢に姿を見せた。牢の冷たい地べたに座り、武市と向き合う。そして、平伏する武市に、吉田東洋らを殺したのはお前の指示だろうと静かに問う。
武市は、顔を地べたに押しつけ、涙ながらに自分の犯した罪を容堂公に吐露する。武市を見つめる容堂公の目には涙が浮かぶ。「他の者たちと同じ死に方はさせん。お前はわしの家臣じゃからの」容堂公は愛おしそうに武市を見た。身分の差という頑強な壁が崩れ去った瞬間だった。
その後、切腹を言い渡された武市はあえて最も苦しいとされる切腹法を自ら貫き、人生の幕を閉じた。