大河ドラマ「軍師官兵衛」~毛利と中国大返し

ここぞという時の行動力が凄い秀吉は、明智光秀謀反を知るや否や攻略途中の高松城と早々に和議を結ぶと、軍勢を引き連れ京都に戻り、明智を討つ。そんな風に駆け足で見ることがあり、全て秀吉の手腕だと思っていたが、ここでも官兵衛が巧みに動く。織田の死を知るや否や、官兵衛は一人考えをめぐらし、その後手筈通りに事を進めていく。

天正10年、播磨から山陰へと進んだ織田軍は備中高松城を取り囲んだものの、土地が湿地帯ゆえ、どのように攻めたら良いものか難儀する。官兵衛が土地の形状や天候を勘案し、水攻めを用いると、それが見事的中。堤防工事により逃げ場を失った水と、川から引かれた水が集まり、高松城はあっという間に「湖上に浮かぶ城」となった。この光景には毛利方も驚き、言葉を失う。

その頃、6月3日信長の訃報(本能寺の変)を受け取った官兵衛はすぐさま毛利へ出向き安国寺恵瓊と接見する。すぐにも京都へ戻りたい官兵衛は、適当な理由で和議を結ぶだけかと思っていたら、何と恵瓊に明智謀反の事実を伝える。知略の長けた二人のやり取りは、あうんの呼吸のごとく、言葉少なに進む。恵瓊は、毛利には内密のまま和睦を結びたい官兵衛の計略に乗り、その足で高松城城主である清水宗治に会う。宗治は、織田側からの和睦の条件・・・毛利の本領安堵、そして城兵の命と引き換えに、切腹を承知するというのだ。己の城が水に浮かぶ孤城となった今、この提案は悪いものではなくなっていた。
切腹の場面は水上に船を浮かべ、清水宗治が万感胸に舞うシーンが流れる。他のドラマでは、(早く終わらんか)と言いたげな秀吉らの姿がありもしたが、ここでは、宗治への敬意を忘れたようではなかった。安国寺恵瓊をはじめ、遅れて事情を知った小早川景隆らも同様、終始沈痛な面持ちで参列した。

そして6月7日、いよいよ京都に向けて出立する。「中国大返し」歴史に名高いこの大一番、ナレーションで一気に進んでしまうドラマが多い中、こちらでは、兵士たちの描写が見られる。山道をがむしゃらに駆ける人々や沿道の協力者による食料の補給シーンも。たくさんの竹筒が500mlペットボトルのように渡され、味噌を掴み取り塩分補給する兵士たちの姿もある。軍行はまず姫路城を目指す。そこには官兵衛の妻(光)が受け入れの準備を整えていた。秀吉は城に備えていた銭を全て兵たち達に配り歓声に包まれる。「これで疲れも吹き飛ぶであろう」と気前の良い秀吉。兵たちは備中から姫路まで80キロを走り続けており、この姫路城ではひと時の休息で、明後日には再び京を目指す。

翌日、姫路城において秀吉と家臣らは今後について話し合う。
兵は6月10日にも兵庫に到着できるとし、加勢してくる大名たちも多いと目算する。謀反者である明智を討つ我らに義はある。一同がそう確信すると、官兵衛は、自分たちの動きをあえて光秀に伝えることを提案した。羽柴軍がこうして迫ってきていることをわざと光秀に知らせるというのだ。義をもって攻めることを公言することにより、味方の士気は上がり、敵の戦意は一挙に喪失するとみたのだ。仰せつかった家臣がさっそく出立する。

 この時、官兵衛の先見の明には凄まじいものがあった。その後天下人となった秀吉が何より恐れたのが、この時の官兵衛の眼だった。信長の訃報を知るや否や、天下を手中にしたことを瞬時に見越した官兵衛は、秀吉の肩を鷲づかみせん勢いで、目を輝かせ、「天下は目前にある」と言い放ち、その道筋をしっかりとつけたのだ。毛利よりも先に信長の死を知った官兵衛が、迷わず恵瓊にそれを明かしたのは、大局を見たからに他ならない。明智討伐に全てをかけるが最善と悟ったからだ。京へ引き返すときに追い討ちを仕掛けられては困るのだ。その一点を誤らなければ良いだけだった。官兵衛は毛利の人質を早々に解放している。毛利など、人質など、ことさら重要ではなかった。結局、天下を取ったものに従うことになるのだからと。

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