黒田官兵衛については、豊臣秀吉に関するものでも「荒木村重を説得しに行って囚われた人・・」。その部分しか触れていないものが多く、あまり印象に残っていないが、ここでは、 天下統一に大きく貢献した人として掘り下げ、 中国攻略から天下取りに至るまで 、秀吉が官兵衛をとても頼りにしているのがよくわかる。今まで秀吉の手腕だと思っていたものが、実はその陰には官兵衛がいた。
また、播磨側から見た織田に対する描写が興味深かった。播磨は西の毛利と東の織田の間に位置する。そのため、毛利につくか織田につくかで大いに揺れる。播磨の大名たちの命運が面白いところだ。
織田信長が「長篠の戦い」で武田軍に勝利すると、官兵衛はいち早く織田へ臣従することを決め、主君小寺政職の承諾を得ると、信長に拝謁した。官兵衛は信長とその家臣たちを前に、播磨が毛利攻めの要となるとし、その策略を語る。織田との謁見にひとまず成功した官兵衛は、その後、播磨の城主たちを説得するため奔走するが、この大変な役回りは播磨が平定するまで続く。
一時は織田につくのが安泰だと判断した播磨の城主たちも、織田の所業に「神仏をも畏れぬ」「人の道から外れている」と不安を拭えない。また、織田が「第二次上月城の戦い」において味方である上月城を見捨てると(我々も上月城同様、見捨てられるのではないか!)と不信感は増す。
さらに、摂津の「木津川口の戦」で、織田の水軍が毛利軍に大敗すると、「やはり毛利だった!」の思いが一気にふくれ上がり、播磨の大半は腹の中で織田を見限る。この見誤りを元に戻すのは困難で、それらは「加古川評定」において表面化する。毛利攻めの評定に集まった播磨の城主たちは、露骨に秀吉に反発し混乱を極める。
しかし、織田をやめた彼らは真っ先に攻め滅ぼされ、1580年、三木城攻略から3か月後、播磨は完全に平定されることとなる。
播磨の城(上月城について)
上月城主の上月景貞 (こうづき かげさだ) は官兵衛の妻の姉の夫にあたる。官兵衛にとってごく近い親戚になる。上月城を包囲した秀吉軍は降伏を促すが、当の景貞は宇喜多直家の援軍を得たため戦う姿勢を貫く。この時秀吉軍として調略にあたった官兵衛は、裏切りを疑われるのを恐れ、上月城攻撃の先鋒を申し出る。この頃はまだ竹中半兵衛が秀吉の軍師として采配を振っていた。竹中半兵衛は先鋒の黒田軍の失速を見越し、秘かに援軍として尼子勝久に話を付けていた。黒田軍が敵に囲まれ、危うい状況となったとき、尼子勢が疾風怒濤のごとく現れ、窮地を救った。山中鹿介の姿に「鹿が出おったか。これは長引くぞ。退けい!」と宇喜多直家が素早く兵を引き、黒田軍は九死を免れた。「さすが山陰の麒麟児、山中鹿介、あっばれな働きであった!」と満足する秀吉。 官兵衛は半兵衛の機転によって救われた。
この頃、半兵衛は情と理をバランスよく見極めていて、頼もしく存在感があった。病の為、志半ばでこの世を去るが、官兵衛にしっかりとバトンを渡す。
さて、尼子勢の登場で籠城を余儀なくされた 上月だったが、その後、度肝を抜くことが起こる。なんと上月の家老が主君の首を討ち取り、それを持参し織田に降伏したのだ。
信長を“魔王”と呼び恐ろしがる者たちがいたようだが、実際の信長がそんな所業を好むわけもなく、その家老はもちろん、城兵の全ては斬首、城内にいた女性や子供を含む二百余人が凄惨な殺され方をした。運命の不思議だが、城主の妻とその子らは死を覚悟して籠城していたはずだったが、このような状況ゆえ逆に救い出される。
その後、上月城は尼子勝久に与えられる。おおいに感激する鹿介。「鹿介、おぬし達、尼子党がこの地を支え、大いに勝久を盛り立てよ。さすれば尼子家再興も必ずや叶う。」そう秀吉に激励され、涙を流し心に誓う鹿介だった。
しかし、鹿介の尼子家再興の強い思いに反し、この上月城は毛利の攻撃を受け再び戦場となる。「積年の恨み晴らしてくれる!」と意気揚々の鹿介だが、兵は700足らず。対する毛利は桁違いの30,000。
官兵衛も秀吉も、気も狂わんばかりに必死で援軍を要請するが誰も駆けつけない。「見捨てよ!」と言い放つ信長。
裏切りをめっぽう嫌う信長は、寝返った別所長治の三木城攻めを優先していたのだ。 尼子家の運命はこの上月城で終焉を迎える。