大河ドラマ「龍馬伝」~戦をせんと世の中を変える大仕事~

1868年、徳川幕府が政権を返上し、明治維新が始まる。
江戸時代から明治時代へ移る大変革。坂本龍馬の活躍を中心に、薩摩、長州、土佐、幕府をからめ、“戦をせんと世の中を変える大仕事”が成されていく。

坂本龍馬と西郷吉之助との出会い
龍馬と西郷の出会いは、勝麟太郎の海軍操練所の閉鎖で実現する。普通なら知り合うはずもない、薩摩軍の参謀と一介の脱藩浪士だが、勝は蒸気船を操れる龍馬たち(後の海援隊のメンバー)を、薩摩で雇うよう軍総司令官の西郷吉之助に話を付ける。

出会いのシーンは、大阪の薩摩藩邸。西郷は 勝麟太郎や松平春嶽とは違い、体当たりの若い龍馬を“面白い男“としてカンタンに気に入ってはくれない。 背後で鳴り響く訓練の銃声と静けさが、二人の緊迫を見事に伝えていた。

「おいに言わせれば、勝先生は甘すぎ。
海軍操練所がつぶされるちゆうとも当然でごわんそ。」
(第26回「西郷吉之助」より)

その後も龍馬は幾度か、幕府と藩の仕組みを変える必要性を、西郷に説くが相手にされない。 そうしている間にも、幕府は急速にフランスとの結びつきを強め、各藩が貿易をするには、幕府の承諾なしにはできないことと取り決めされる。 例えば、薩摩とイギリスの間で商いが成立しても、長崎奉行が認めなかったら、取引ができないのだ。現実に、薩摩が利益を得ていた“樟脳”の取引は従来の半分となる。 龍馬の発想を一蹴した西郷だったが、現実的に追い込まれていく。
龍馬はついに秘策を告げる。ー長州と手を組むことぜよ
薩長が手を組めば、お互いの利害が一致する。幕府に対抗できるのだと。ここにきて西郷はようやく龍馬の言葉に耳を傾け始める。

紆余曲折を経て慶応2年(1866年)1月21日「薩長同盟」が成立する。長州にとっては大恩人となった坂本龍馬。
そして、その約4か月後、幕府軍による長州征伐が再び始まる。
幕府軍15万に対し、長州軍はわずか4千だった。 兵数では圧倒的に劣る長州だったが、龍馬と亀山社中のメンバーは彼らと一緒に戦う。高杉晋作の「奇兵隊」は、自分らの国を守るため結成された軍隊で、多くは武士以外の人々だった。そして 最新式のミニエー銃の威力と奇襲攻撃が功を奏し、長州軍は幕府軍を撃退させるのに見事成功した。あろうことか徳川幕府は長州に、外様一藩に負けたのだ。  

「幕府軍を西洋式のより強大な軍隊に変え、必ず長州を討つ!」
フランス公使の前で決意を口にする徳川慶喜
(第40回「清風亭の対決」より)

これからの龍馬は江戸城無血開城を成し遂げるために動き出す。最初は、幕府を武力で叩き潰そうと考える長州と薩摩の前に、八方塞がりだったが、思わぬところから道が開けていく。

「大政奉還など奇跡が起こらん限り無理じゃ」
木戸孝允と龍馬
第39回「馬関の奇跡」より

後藤象二郎と坂本龍馬
土佐の参政である後藤象二郎は長崎にいた。山内容堂公から薩摩と長州を探るよう命令が下されていた。 両藩に顔が効く坂本龍馬が役に立つかを見極めたい後藤は、龍馬と会う手筈を整える。ちなみに後藤と坂本は顔見知りだった。後藤は坂本を嫌っていた。かつて後藤は坂本に煮え湯を飲まされた経緯がある。そして坂本に対し強い嫉妬の感情を持っていた。
当日、待ち合わせの場所である「清風亭」では、ふすま越しに刀を携えた土佐藩士が多数控えていた。場合によっては龍馬を切り捨てようというのだ。そんな緊張の中、龍馬が現れる。 龍馬はなぜ自分を毛嫌いしている後藤と会うか?理由は簡単だった。土佐を使って大政奉還を成し遂げようと考えたからだ。
清風亭会談は出々し後藤から要旨が伝えられ、「おんし、命が惜しければ、わしの言う事を聞けぃ」と一方的な様相だった。
龍馬が口を開くまでは・・・。龍馬は後藤を本当のところは信じていたようだ。長州、薩摩をはじめとする日本の現状、そして土佐が加わることでそのバランスがどう変化するか。後藤がそれらを真に理解できる男かどうかを。 自分を虐げてきた上士である後藤を目の前に、龍馬は口を開いた。その時から、清風亭のその一室は完全に龍馬の空間に変貌した。怯むことなく己の目的を説きつける龍馬の姿は小気味良く、全く違う方向を向いていた後藤だったが、嫌でも龍馬の指し示す先を見ざるを得なかった。それほど龍馬には私心がなく、日本の危機を真剣に考えていた。

握手を交わす二人
第46回「土佐の大勝負」 より

龍馬と目的をひとつとした後藤はそれからなんとなく立場が逆転したようにも感じるが、龍馬に協力する。時には山内容堂公の怒りを買う厄介な役回りも汗をかきながら懸命にこなす。そうなってくると、憎かった後藤のしぶとさが格好良く光る。 こうして後藤の奮闘のお陰もあり、薩土盟約の締結を経て、その趣旨を容堂公に伝えるに至る。

容堂公にはとてつもない大役が伝えられる。
-徳川将軍家に大政奉還を建白すること。
容堂公には口癖があった。260年前、山内一豊公が徳川家康公より賜りしこの土佐24万石・・。戦国時代を生き抜いた武将、山内一豊は、「関ケ原の戦」で東軍に加わり、戦後「土佐」の国主となる。その山内家。薩長とは違い、徳川に深い忠義を示している藩の1つだ。 たかだか一藩を治めるに過ぎない者が、徳川将軍家に大政奉還を建白するということは、途方もないことだ。 だが、 決意を固めると、慶喜に対し、建白書をしたためた。 こうして大政奉還という選択肢が慶喜に手渡された。

この容堂公の働きかけがきっかけとなり、慶喜は二条城にて意見を確認するべく各藩代表を招集する。 慶喜は直前にて薩長からの武力攻撃をまずは回避することに成功する。

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