大河ドラマ「葵徳川三代」~天下分け目の大戦

「三成が挙兵に及べば勿怪の幸い。誰と誰がこれに加担するのか。時を与えてじっくりと見極めようぞ。後で十把一絡げに葬れば手間も省ける。」冒頭での徳川家康のセリフ。「天下分け目の合戦」を前に、敵と味方の見極めに注力していた。

慶長5年(1600)7月24日、上杉討伐に向かっていた家康は、石田三成挙兵の報に対し、「下野国小山」にて諸将たちを招集し意向を問うた。彼らの多くは妻子を大阪城に人質として取られていたため、進退は自由と公言した上でのことだった。福島正則、黒田長政、山内一豊など豊臣家譜代の武将が家康に忠誠を尽くす事を明らかにすると、他の武将らも次々と家康と一緒に戦う意を示した。この有名な「小山評定」で、家康は東軍の結束を確認した。用心深い家康はさらに彼らの忠誠心をふるいにかけるべく、あえて武将らを長時間にわたり待たせるなど理不尽な扱いをし、真意を見定めた。
 途中で寝返るような奴は要らんということだ。

これらの軍議を経て、9月15日、関ケ原において合戦が始まるのだが、家康を中心とした東軍の連携が確かな様子がわかる。家康の号令に対し、滞ることなく機能する東軍に対し、三成率いる西軍では”もたつく”場面が続く。島津の陣では、加勢を頼みに来た三成の家臣に対し、馬上よりの物言いに無礼だと怒る島津豊久。三成が謝罪に駆け付けるも、持ち場が約束と違うなどの理由から加勢を拒否する。驚くほど淡々とした様子だ。南宮山においても、吉川広家が邪魔をし、毛利秀元らが足止めをくらう。三成は吉川が調略されていたことに気づいていない。小早川秀秋についても同様で、秀秋自身はともかく、小早川の重臣たちは東軍に調略されていたとう。
  序盤は優勢だった石田軍も、次第に風向きが変わり、天下統一の女神は家康に微笑む。

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